ハリコフ会議〔1930年11月、ソヴェトのハリコフで開催された第二回国際革命作家会議の通称〕から戻ったアラゴンとサドゥールは、この会議でシュルレアリストとしての立場を放棄した件でグループ全員から激しく突きあげられていた。二人は必至に弁明に努めるが、そうこうするうち、『世界革命の文学』の仏語版に載ったアラゴンの長詩「赤色戦線」がフランス官憲の眼にとまり、1932年1月、アラゴンは殺人教唆などの嫌疑をかけられ告訴される。
これに対し、シュルレアリストたちはアラゴンを擁護するためのビラ「アラゴン事件」を発行し、さらにブルトンは単独で「詩の貧困」を執筆し、アラゴン弁護に立ちあがる。だが… |